2014年1月26日日曜日

ぼくの せんそう

せんそうがやってきた
うかれたひとはいなくなった
まちじゅうに
なんみんがあふれた
しんだひとは
だれかがつちにうめる

おおきなふろおけが
といれのかわり
こうみんかんは
なんみんのすみか

ぐんたいは
がいこくにでかけて
まもってくれないから
てきがやってくれば
ていこうせず
ころされるかもしれない

やきゅうじょうのフェンスのうらに
ひとがたむろしているのは
せめてくるものから
かくれたいからだ

まだ
そらからばくだんはふってきていない
ラジオもテレビもほうそうをやめたので
がいこくのほうそうを
きくしかない

よるはでんとうがともらないせいで
ほしがきれいだ

エアコンもとまっている
いろんなにおいがまざっている
ちょうへいされたひとも
いるという

ぼくはふつかのあいだ
なにもたべてない
もうそのことさえわすれそうだ

こっかはなくなってしまったようだ
みんなしょくばほうきして にげたのだ
ひとびとは
ただいきのびるだけのじょうたいとなっている
しをかいたり
うたをうたをうたっているひともいない
あんなに はやっていたスマホさえ
もうするひとを どこにもみることができない

ふろおけに
ちんぽをむけて
ちからをこめると
なんと おしっこは
いきおいよく
むこうのふちあたってしぶきをあげた

そういえば
ふつかぶりの
しょんべんだった

1 件のコメント:

  1. 中村ゆき子2014年1月26日 23:59

    どんな状況でも人は本能でいきているのですね。
    皆が本気でで本能で生きたとしたら
    可能性は、無くならないでしょう。
    人は生きたいと思うのが本能だと思うから。

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