2010年10月4日月曜日

新聞連載詩 未来4

「未来の手のひら」  マツザキヨシユキ

皺だらけの手を見ていると
安心だ

その手は
いろんなものを触って
強さを蓄えてきたから

生まれたばかりの日
その手は
差し出された人差し指を
力強く握った

以来 
その手は
差し出された いろんなものを
握ったり
握らなかったりしてきた

父が買ってきたおもちゃ、ドアのノブ、どんぐりの実
リレーのバトン、消えていく雪の粒
恋人の湿った手、去っていった人の袖のボタン
あげればきりのないほどのものたちだ

指先は敏感で
いろんなものの感触も確かめた

きょう
皺だらけの手が
生まれたばかりの命に触れようとしていた

未来へと育つ小さな手が
もうすぐ去り行く人の人差し指を握り締めた

いつかも そんなことがあった
そのまま
しばらく開くことのなかった小さな手のなかに
残ったもの

メッセージ☆
赤ちゃんと年寄りは実はとても近くにいるということを誰もが感じているでしょう。
たとえば二人が視線を合わせているとき、とても濃い交流が何かの形でなされているのではないかと思えてなりません。秘密の暗号交信のように。
輪廻というのがあるかどうかは分かりませんが、生まれてきた命というのは、すべてを見透かす無垢の目を持っている、・・・いや、実はもっとも老成した種の生命そのものの視点をもっているということなのかもしれません。年寄りから赤ちゃんに伝えることがあるとしたら、人類の未来のための使命、とでもいうべきものでしょうか。

2010年10月3日日曜日

窓越しの猫

へいの上に猫がいる
こちら側と あちら側
猫は 両方 見えるだろう

へいの向こうでは
蛙が 池に 飛び込む
こちらでは 豆腐屋の自転車が
通る

へいとは 関係ないところで
子供の はしゃぐ声が する
もぐらは
もうじき 目を覚ます

電話を切った 女子高生が
涙を流して 泣いている
猫は ちらと 後ろを 振り返る
遠くで 汽笛が鳴って
街に響き渡る

猫は 足音も立てずに 歩き去る
きょうもまた
私が残される

2010年10月2日土曜日

心の波は寝息になって

屋根を取り払えば
まんてんの星が瞬いている
みんなそれぞれ必要なものを
カバンに詰め込んでやってきた
それは夢の焚きつけにつかう
燃料みたいだ

ぼくはラジオを持ってきた
いつも自分の部屋で聴いている番組を
きょうは周りの友だちを気にしながら
ちょっと自慢気に聴くのだ

なかなか周波数が合わないが
ノイズの波の向こうに
見え隠れするいつもの声

星も何かのメッセージを発しているのだろうか
壁を何枚か隔てた所には
みんなと同じ布団を敷いて
小峰が寝ている

同じ星の天井の下
同じ星の同じ場所で
寝息はモールス信号のように繰り返し
未来のメッセージを伝えようとしている

2010年10月1日金曜日

あいまいなわたし

世間は
あいまいなことであふれている

そのほうがいい と
みんなが 言う

そう言う みんな は
オトナ と呼ばれている
呼ぶのはオトナである

ところで
山の中腹にある
自然公園
(中腹というのが どの辺りなのか
なんという山であったかは
あいまいだが)
そこに
かもしかが 数頭いた
その かもしかは 
なぜか クリスマスになると
商店街に 駆り出された

いい 鴨になった
とは思わない
だって
かもしかは
喜んでいたかもしれない

しかし
もしかしたら
かもしかは
疑問だらけだった
かもしれない

自分は誰なのか
トナカイと 同じなのか
そうなのかもしれない
でもすべては
うそのうえに成り立っているのかもしれない

首を傾けて
澄んだ目を空に向けて

2010年9月30日木曜日

天秤座の彼女

天秤座の彼女は いつも
カレシとモトカレを
天秤にかけているという

地球から20光年のところに
地球とよく似た星が 見つかったという
その星は天秤座の中にあるらしい

いっしょに蠍座のところにいた
僕の彼女は
いま別の星座に近づいているらしい

天秤座の彼女は
双子座の双子のカレシの
区別がつかなくて やけになっているらしい

これらのことは B型の友達が教えてくれた
うそつきの友達が これはマジ ホントなんだけど と
語ってくれたのだそうだ

2010年9月29日水曜日

行きずり

きみは行きずりのひと

何度も待ち合わせして
手も繋いでみたけれど
河原で短いかけっこもしたけれど
ベッドでに沈みながら未来の話もしたけれど

きみと僕のあいだには
何かが挟まっていて
密着して合わさらなかった

きみとは
さよならをすることなく
行き違った

僕はまたきみと
行きずりたいと願う
また行きずるだろうか
行きずらないだろうか
そうだ  いっそ正面衝突がいい
それならその場にもつれて倒れこみ
行きずれない
人目を気にしない勇気さえあれば
日記のように詩を書き、このブログに掲載しています。誰かに読んでもらおうというものではく、ほとんど自分のために書いていますが、偶然に通りかかった人が立ち寄ってくれ、常連のようになりつつある人もいて、それはそれで張り合いがあってうれしく、その少ない読者に感謝しています。しかし、「広報活動」をして、もっと多くの読者を獲得しようとは思っていません。少ないのがちょうどいいのです。


詩をかく楽しさとは別に、毎日は苦闘しています。また、詩を書くことが、その苦闘をより鮮明にしているとも思えます。冬の寒さが夕日のあたたかさを教えてくれるように、詩と日常は別の場所にあって、詩は苦闘のありかを照らしています。苦闘ははやく過ぎ去ればいいのですが。

2010年9月28日火曜日

白いタンクトップ

きみはぼくのすきなひと
白いタンクトップがよく似合う
飾り気のない美しい人
きみの横顔には
しゃれた街並みや緑の草原
曇った窓ガラス 雪の雑木林も
よく似合う
きみはいろんなものをほしがるけれど
ぼくは それらの代わりに
一本の枯れ枝を渡したい
枯れ枝はなんの役にも立たないけれど
きみの頬をふくらますのには十分だ
きみはぼくの誘いにもよくつきあって
軽やかについてくるけれど
きみが思っているのは
いつでもきみの優雅な日常のこと
きみをどこに解き放つかということ
ぼくはきみの部屋にある
きみの写真を思い出す
モノクロ写真のの森の中にいまもつるされているはだかのきみ
その周辺を 天女の布が舞い 漂っていて
きみは今にも放心しそうに こちらを見ている
ぼくは きみに 問いかける
きみはなにをゆめみているのか
きみは いつもわらうばかりで こたえない
きみは なにも ゆめみていない
ぼくは きみに 手紙をかこう
よまれることのない とどくこともない手紙
きみのゆめのなかで もやすといい

2010年9月27日月曜日

小峰に纏わりつくネコ

小峰とネコのことは想像するしかない

小峰が人前でネコといたところを
誰も見ていないから
第一 小峰にネコは似合わないと僕は思う

小峰はペットを飼うような感じではなく
孤立して淑やかで
生き物の毛を衣服につけている筈もなく
そんなに寂しがり屋でもない

それでも
小峰とネコのことを考えるのには訳がある
それは僕が小峰のことを考えるとき
最近は いつでも
ネコの気配を感じる
足もとにネコがいる!
このあいだは ネコがまとわりつき
小峰が もう~ とネコのことを払いのけるような声が聴こえた

ネコはどこからくるのか知らないが
妙に訳知りの様子で
程よく小峰に纏わりつくが
たまに度を越して追い払われる

その様子は
楽しそうで 悲しそうだ

僕はいつか
纏わりつくがネコに聞いてみたい
あんた 小峰の なんなのさ

2010年9月26日日曜日

夜の(ピンクゴールド)

えっ?
夜のしましま

いっ?
なかに入っちゃうの?

うっ?
がまんしなくてもいい

あっ?
あのときよりいい感じ

おっ?
どこまでもいくのだ

ねぇ
夜のしましま

しましま?
しましま。