2012年9月1日土曜日

私というあなた

言葉を教わると
たちまち言葉に閉じ込められる
瓶詰めのジャムみたいに
ラベルをはられて
内容量がきまってしまう

たとえば
いわし雲があったとしよう
いわし雲という言葉を覚えると
いわし雲は缶詰の中に入って(缶のほうがいいだろう?)
「いわし雲」というラベルが貼られる
すると人は「いわし雲」を
ほかの雲(入道雲やうろこ雲など)や
気象の状態や
ましてや魚(鯖やマグロ)と間違わずにすむ

だが
言葉に捕らえられると
捕らえられたものたちはたちまち自由を失い
場合によっては意味がいい加減な詩なんていうものとは
おさらばしなくてはならない
孤立無縁に閉じ込められ佇む姿はなんと憐れなのだろう

私は
去年
中国に留学して
英語で 中国語を習った
どちらもよく知らない言語だ

私の名前は
今まで私が知っていた名前と
似ても似つかぬものになった
ずっと
マツザキヨシユキ
と呼ばれてきたが
ソンチーイーシン
となった

私の自由は
果たして広がった!
それでも
名前の中に閉じ込められて
私は何をしようか

私というあなたは
何をしますか?
という質問さえ
言葉を頼りにするなんて

2 件のコメント:

  1. たまには自問しても悪くないものです。

    返信削除
    返信
    1. 私はいつも自問自答してばかり。これは悪い癖でしょうかね。

      削除