もしいま病院に行ったら、うつ病と診断されるかも知れません。詩を書いていても感じるのですが、まるで感性が働きません。人の詩を見ても理屈で読んでしまいます。絵なども、なんとなく美しいとは経験的に思うのですが、それがありふれたモチーフのバランスのいい絵である場合は、本当に美しいのかどうかがよく分からなくなり混乱してしまいます。気力や睡眠、摂食の状態もおかしいようです。しかし、いままでも、なんとか自力でやっつきたので、数日か数時間で嵐が去らないかと期待してまっています。しかし、今回は、自分の詩を読み返す限り、やや長いのではないかとおもえるのです。
2012.4.17
自分の詩の良さが全く分からない時があります。その時は悪さは分かるのです。他人の詩についても、良さが分からず悪さが分かります。
私の詩に対するスタンスは親バカみたいです。自分の詩、他人の詩に分け隔てなく、甘々です。
毎日おいしいものを食べて
ダイエットに苦労するより
食べ物のことはあまり考えずに
基本 粗食にして
新しいことを毎日一つ見つけて
たまには実際にやってみるというのはどう?
かっこいい風貌になっていくと思うよ
消費者に甘んじて
誰かに飼いならされるより
人まねでない好きなことをみつけて
やってみない?
おちゃらけて楽しむより
自然に楽しんだほうがいい
人と同じだと安心だけど
違う部分があった方がいい
豪華なセレブリティの生活なんかに
憧れる必要はない
生成りのシャツでいつでも走っていける方が自由だ
幸せを手に入れるときは
思い切って清水の舞台から飛び降りる気分で掴み取る
できない場合は
こっそりと掴み取る
命がけでね
そうしないと
幸せは掴み取れない
当たり前だけれど ね
2012.2.16
日本
216
アメリカ合衆国
16
ロシア
15
ラトビア
8
ドイツ
2
マレーシア
1
オランダ
1
今週のページビューです。ロシアが増えてきたのはなぜ?
ラトビアが初めて登場。マレーシア、いつもありがとう。
2011.11.25
ブログ更新、携帯メールの使用が、しばらくできないことがあります。
インターネット環境が、うまく整わないため、毎日更新してきたこのページですが、しばらく、不定期になります。中国からは、グーグルやその他ブログ、Twitter、フェィスブックにはつながりにくい状況です。
また、携帯メールも受信できないことがあります。Gmailから自動転送していますので、そちらにお送りください。返信には、少し時間をいただくこともあります。
状況が変わりましたら、また、この欄でお知らせします。
2011/9/25
こっそりこのブログをはじめて、もうすぐ1年。365+α篇の詩のようなものを書いたことになる。最初は、世の中とつながることが嬉しく、でもすぐにどう繋がるかを迷うことが日課のようになった。自分自身の存在価値を問い直しつつ、絶望や後悔、希望や未来のビジョンをこねくり回しながら、途中でTwitterとのリンクもし、自分の名前を出して活動することも始めた。これからどうなっていくのだろう。これは、自分による自分の人生の実況中継だ。
2011年8月27日
楽しく遊んでばかりいると、楽しいことが当たり前になってしまうのではないかな。普通のときが、つらくなり、苦しいときはもっと苦しくなるのではないかな。友だちや恋人とは、辛いことを共感できるのと、楽しいことが共感できるのと、どちらがいいのだろうか。あっ、どちらもですね。しかし、真面目な人は、自分に規制をかけて、不真面目に振る舞えず、勇気のない人は、なにかと勇気を出せず、貧乏な人は自然な感じでお金が使えず、それをほぼよしとして、生きているかのようですね。死んでもいいみたいな生き方に憧れる・・・振幅が自由自在な。
2011年7月13日
10,000超ありがとう!
誰にも言わずに始めたブログでしたが、10,000ベージビューを超え、なんだか一区切りついた気分です。ポエムジャーナリストを標榜しながら、なかなか取り組むことができず苦戦しています。しかし諦めずに必ず自分の方法論を確立し、表現していきたいと思います。もう一つのライフワークである『選評作家』についても、徐々に活動を始めています。詩を読んでほしい人から求めがあれば、どこへでも出掛けていって、講評をしています。すでに何度か地方にも出掛けていきました。(もしご希望の場合は、matsuzakiyoshiyuki@gmail.com までご連絡ください)。
2011年7月6日
「どんな人が読んでくれているんだろう」。日記のようにわがままに書いてきましたが、そんなことがすごく気になるようになってきました。先月、数年ぶりに御徒町凧さんの「朗読会」で詩を朗読しました。その時、とても緊張したのですが、それは、人生が転換するような、特別なことだったからだと思います。人前で朗読するということが、何かのきっかけになるようなストーリーが自分の中で進行していたということなのでしょう。
2011年6月9日
自己表現は半分。心がけてきたことですが、言い訳になってしまっていることもありました。人に価値をあたえるのと、自分のために書くことは、自分次第なので、いいように、甘えてしまったようです。反省しなければなりません。
2011/04/27
祝5000超
ひっそりとやって来ましたが、5000という伏目を超え、とてもうれしいです。毎日休まずつづけられたのも、みてくださった方のおかげです。カウンターの数字や、自動集計される人気の投稿の順位が入れかわっていくのをたよりに、書くものを変えて来ました。しかし、震災に直面してからは、言論人としての使命感みたいなものがだんだんと強くなり、他にないアプローチで書けないか模索することとなり、震災の詩、として、約20遍を書き、タグをつけてまとめるにいたりました。
2011年4月22日
立ち入り禁止地区の行方不明者の捜索がはじまりました。「遺体の捜索できず」と報じていたメディアも「生存者と遺体の捜索」と変わりました。「救出劇」がまた報道されるのでしょうか。ニュースショーはおちゃらけた口調で、被災地のニュースを伝え始めています。NHKは、震度6強の地震が起きても、もう、慣れっこで、深夜はニュースを字幕で流すばかりです。東京では民法の日テレだけが朝まで報道特別番組を放送しました。その他はもう何もなかったように、美容グッズの販売に熱心です。これからどうなっていくのでしょう。2011年4月7日
人が崩壊した家屋や瓦礫の下に埋まっているのに、それを放っておいてはいけません。
放射能漏れの立ち入り禁止地区であっても、いますぐ立ち入り、救助すべきです。
防護服をまとい、交代で構わないので救助活動をすべきです。
それをしない理由はありません。
マスコミや市民はこのことをもっと問題にすべきです。
東京電力はさらに、人手を割いてでも、どんな手を使ってでも、立ち入り禁止地区の人を救助すべきではないですか。
政府の規制に「あきらめ」てしまうことは罪です。
2011/03/27
自分の詩をもっと多くの人に読んでほしいという気持ちが強くなってきました。日記のように書き続けるだけでなく、読みたい人に読んでもらう循環をつくりたいと。また同時に、以前していたように、詩をみんなで楽しみ、書いていくために集まる場所を作りたいと。そこで詩を鑑賞し、学び、励まし合っていきたいと。これは高校生の頃からやっていた僕のライフワークともいうべきものです。どうやって実現しようか、考える前に動き始めるのが、自分のの特長だった気がするのですが…
2011年3月10日
月日は百代の過客にして…という気取ったことは言えない。いつのまにか月日が過ぎて、書こうとしていた手紙の返事も書かぬまま、ひと月が過ぎ去っている。オイテケボリの連続。この連なりからいつになったら抜け出せるのだろう。何かの力で弾き出されるまでずっとこのままなのだろうか。
詩はよく現実逃避の手段に使われてしまいます。現実の諸問題の解決や、突きつけられた数字を前にして、戦うことをあきらめ、逃走してしまうのです。それが詩の特権だといわんばかりの勢いで。
初詣の列に並んでみることにしました。狛犬の横で、お札やお守りに混じってだるまやコケシも燃えていました。女子高生たちがなんとお祈りしようか、絵馬になんて書こうか大きな声で相談しています。やんちゃな中学生集団が、遠くから1円玉を投げる遊びを思いついて大騒ぎしています。一円玉は投げられるたびに誰かの頭に当たっています。背が低い人は人混みに埋れて前が見えません。静かに列に並び間を詰めながら前へ進んでいく集団。そのなかにいて、なんとなく安心な気持ちがしていました。小学生からやり直せそうな気分がして。進化を辿ってきた自分というこ母は生命の個体が、社会に生まれてからの自分を一瞬の唄にスキャンしてしまったのかも知れません。
もうすぐ2010年は過ぎていこうとしています。自分が2010年というステージを駆け抜けていくのではなく、2010年というステージが、自分の中を通りすぎようとしています。自分が止まっている存在だと感じたことはいままであまりありませんでした。真実は、自分も時もどちらも動いているということだと思いますが、最近の自分はどうも止まっているので、あらゆるものたちは、通りすぎて行くようです。ある意味今の自分はとても傲慢な姿勢といえます。2010/12/29
過去の自分と今の自分、どちらが好きだろう。こんな簡単な質問にもためらいが生じて答えられません。自信を持って「今の自分」と答えたいのですが。過去の自分のことがよくわかっていないということもあります。自分を見つめることを避けていたから。もちろん避けたくて避けていたわけではありませんが。未来の自分に自信が持てる未来を手に入れたいものです。あっ、自分を所有することは、正しいのでしょうか。正しいはずなのですが…
何をやってもうまくいきません。言い過ぎでしょうか。心情はこれが真実です。うまくいくことを切望していないのでしょう。小さく成功して納得してしまうことへの怖れもあります。これは過去に冒した大きな失敗と釣りあっています。小さな成功ではとりかえしがつかないということです。しかし、小さな成功はとても大切なことだとも分かっています。と、ここまできて葛藤という言葉が思い浮かびました。そうか、葛藤か。だから、なかなか抜け出せないのだ…。葛藤、これは手強い。独り言モードに入り、つづきます。
毎日新しい日がやってくることは素晴らしいことです。しかし次から次へと切られるカードに、自分はどう対応したらよいのでしょう。ちょっと待ってと声をかけることはできるのでしょうか。
克服しなければならない問題がなんと多いのでしょう。その多さに毎日起きるたびにまずため息を漏らし、それから自分に恨みごとをいい、そこから逃れるように這い出します。そしてやっとなにか一つのことを始めます。もっとポジティブにと自分を急き立ててみても、空回りが始まるばかりと解ってしまったのです。
猛暑続きのあとにこんな季節がやってくるなんて、解ってはいたけれど、現実感のないまま、寒さの中に突入していくようです。この何年か、季節は無感動に流れていくかのようでした。体のどこかで感じながらも、感覚を押し殺していたのです。季節を感じること、それはとても豊かで刺激的なことだと思っていたはずです。
秋から冬になろうとする季節。そう書いただけで、感傷的だった思春期の頃を思い出してしまいます。思春期を思い出すたび、また、思春期の渦中に入っていってしまう。これ、性格というものなのでしょうか。つまり、いつも感傷的。しかし感傷にもいいところがあります。普段と違って自分と世界が見えるところ。そう、こう〈世界〉なんて書いてしまうのも、感傷のなせる技です。