祭りが西の方からやってくる
夕日が沈むまちからまちを
笛を吹きながら
渡り歩いているのだ
決まってだれかが太鼓を
たたきはじめる
するちう踊り歌う者たちも現れる
中には愛を交歓し始める者も
露店がたち
人々が群がり始めた頃
祭りはご満悦
瞼の裏に懐かしい子どもの頃の思い出を映し出す
そうして楽しい夜を過ごしていつの間にか眠ると
翌朝は早起きしてもう立ち去ってしまうのだ
祭りが去ったあと
祭りは立ち去ったまちのことを
しばし忘れている
しかしだれかが祭りに思い出話をすれば
祭りはその都度思い出す
悲しいことが何処かに隠れていたことも
その時始めて意識して
2013年9月4日水曜日
2013年9月3日火曜日
2013年9月2日月曜日
主観の代名詞のような
主観の代名詞のような詩がある
そのような詩は
一つの語句としては長すぎるし
中身がないのに重たすぎる
主観の代名詞のように生きたいと
願う私は
世間にいるために
なにが必要であるのかを
知りたいと願うが
知られる訳がない
客観の主語が
攻め入り私を追いやったとき
それでも私は
敵陣に時折顔を出す
そのような詩は
一つの語句としては長すぎるし
中身がないのに重たすぎる
主観の代名詞のように生きたいと
願う私は
世間にいるために
なにが必要であるのかを
知りたいと願うが
知られる訳がない
客観の主語が
攻め入り私を追いやったとき
それでも私は
敵陣に時折顔を出す
2013年9月1日日曜日
いいことばかり
いいことをかんがえる
いいひとになりたいから
いいおもいをしつづけたいから
わるいことはすぐにわすれて
わるあがきはせず
いつもいいことをさがしている
いいことだらけでいたいから
いいことづくめになるように
つごうのいいひとをわたりあるいて
わるいことはさけつづけ
わるものたいじはひとにまかせて
いいひとほめてほめかえされる
いいとはなんていいのだろう
いいよのなかにいきてゆく
いいわたくしはいいますとも
いいよりいいことありません
いいひとになりたいから
いいおもいをしつづけたいから
わるいことはすぐにわすれて
わるあがきはせず
いつもいいことをさがしている
いいことだらけでいたいから
いいことづくめになるように
つごうのいいひとをわたりあるいて
わるいことはさけつづけ
わるものたいじはひとにまかせて
いいひとほめてほめかえされる
いいとはなんていいのだろう
いいよのなかにいきてゆく
いいわたくしはいいますとも
いいよりいいことありません
2013年8月31日土曜日
あるく
あるく
みちを
ろうかを
かいだんを
エレベーターを
えきを
ひこうじょうを
スーパーを
がっこうを
じぶんのへやのカーペットのうえを
のはらを
すなはまを
おかのさかみちを
びょういんへむかうせまいほどうを
ねこのうしろから
むかいがわのひとときょうそうしながら
ながいかみのひとのシャンプーのかおりのあとについて
あらまるためのささやかなおくりものをかかえて
あるく
おいかけてくるつきをよこめに
もれてくるラジオのおとをみみにして
ふるいことをいきなりおもいだしたりしながら
あるく
ふつうのきもちで
さびしいときも
わるいしらせをまだしらないときも
なにかのよかんがとぎれてしまったときも
ふだんどおりに
わざとほほえみながら
てをふってあしをあげて
くじけそうになっても
くじけなくても
あるく
いこくのまちを
だれかといっしょに
だれかがいっしょでなくても
きょうも
あるいている
いま
たちどまって
また
あるきだした
みちを
ろうかを
かいだんを
エレベーターを
えきを
ひこうじょうを
スーパーを
がっこうを
じぶんのへやのカーペットのうえを
のはらを
すなはまを
おかのさかみちを
びょういんへむかうせまいほどうを
ねこのうしろから
むかいがわのひとときょうそうしながら
ながいかみのひとのシャンプーのかおりのあとについて
あらまるためのささやかなおくりものをかかえて
あるく
おいかけてくるつきをよこめに
もれてくるラジオのおとをみみにして
ふるいことをいきなりおもいだしたりしながら
あるく
ふつうのきもちで
さびしいときも
わるいしらせをまだしらないときも
なにかのよかんがとぎれてしまったときも
ふだんどおりに
わざとほほえみながら
てをふってあしをあげて
くじけそうになっても
くじけなくても
あるく
いこくのまちを
だれかといっしょに
だれかがいっしょでなくても
きょうも
あるいている
いま
たちどまって
また
あるきだした
2013年8月30日金曜日
三流の私
超一流の
第一線で活躍しているひとの
そばにいても
自分が三流であれば
華やかな世界に足を踏み入れていても
三流であることが際だつだけ
綺麗なひととつきあっても
自分が醜ければ
鏡に映る姿に
写真のなかの自分の姿に
ぞっとするだけ
何を夢見ても
たとえその夢がかなっても
かなった夢が失われたら
夢を叶えているひとと仲良くしていても
自分の部屋のありさまをみて
さめざめと
肝を冷やすだけ
そこに救いはないけれど
救いがないことが唯一の救いか
そこから抜け出したい
か細い思いが
唯一自分をあたため
凍りつくのを防いでいるだけ
第一線で活躍しているひとの
そばにいても
自分が三流であれば
華やかな世界に足を踏み入れていても
三流であることが際だつだけ
綺麗なひととつきあっても
自分が醜ければ
鏡に映る姿に
写真のなかの自分の姿に
ぞっとするだけ
何を夢見ても
たとえその夢がかなっても
かなった夢が失われたら
夢を叶えているひとと仲良くしていても
自分の部屋のありさまをみて
さめざめと
肝を冷やすだけ
そこに救いはないけれど
救いがないことが唯一の救いか
そこから抜け出したい
か細い思いが
唯一自分をあたため
凍りつくのを防いでいるだけ
2013年8月29日木曜日
きょうで3年目が終了しました。4年目にはいります。
3年前の次の日。2010年8月30日。それまで世間との関わりを最小限にして生活してきたが、また、詩を書いて世間と繋がることにした。世間のうちの半分は自分という得体の知れない身近なやっかいものだ。
世間と繋がっていいものか。幾人かの知り合いは「名前を出さないほうがいい」と言った。また幾人かの知り合いは「気にせずどんどんやるべきだ」と言った。当時はそういうことさえ、難しい、重要な問題に思えた。
公開で、フィクションの詩日記を書くだけ。そういう「言い訳」を用意して、書きはじめた。なんて小さな、つまらない自分。読者は知り合い数人だった。
2013年8月29日。きょうでまるまる3年間続けたことになる。この3年間で、ずいぶん変化したこともあるし、変わらなかったこともある。過去の自分に戻ったこともある。一生懸命やったが、うまくいかなかったり、へこたれたり、ひねくれてひきこもったりした。丸3年なんて、とるに足らない価値かもしれない。だが今の自分にとっては、大事な勲章だ。(勲章なんて、いいものじゃないけれど)。
2008年、自ら創業した事業の経営破綻で、多くの人を傷つけてしまって以来、そのことにどう向き合ったらいいか、なにをしたらいいのか、いつも心の底で考えてきた。堂々巡りを繰り返す中、少しずつ冷静に、ディテールがみられるようになり、いまも発見することがおおい。
そんな中、毎日書き続けていると、詩に対する思いは強くなり、強くなるにつれ、問題意識も強くなっていった。詩を特別視している自分に、つぶしのきかない、異様な「弱さ」を感じるようになった。詩と自然にふれあい、自然の一部のように詩とつきあいたい。そういう思いが気持ちを満たしていった。それは、詩ではない、人間の心と深く関わりたい、という願いであると気づいた。
いま、私が抱えている問題は、どこでどのようなものに結実していくのだろうか。この場は、小さく、見えないほどか細く、隅っこにある存在だけど、役立つのではないかと感じている。答えはいつも「いま」のなかに「問い」の形であり、いつまでたっても答えが出せない予感が寄り添っているが、見てくださっている皆様と、人として生きるすばらしさを発見していけたらと思っている。
2013年8月29日
2013年8月28日水曜日
キツツキの私
うそつきの私
キツツキがすき
傷つきやすいから
キスするなら
気をつけてね
キツツキの私
キツネと月がすき
ツキが回ってきたら
羽根つきの音で
つつきます 木
傷ついた私
傷つけたキミ
スキマをうめて
きっとうちあけてね
うそつきは禁止
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